一回あたり、一グラム
今朝、歯を磨いたときに使った歯みがき剤の量を覚えている人は、まずいないだろう。ブラシの上に、なんとなく乗せた。それだけのことだ。
量にして、およそ一グラム前後だと言われている。小さじ一杯にも満たない。財布から出た金額に換算すれば、数円にもならない。これほど意識されない消費も珍しい。
洗濯もそうだ。洗剤をキャップに注ぐ。あるいはジェルボールを一粒放り込む。数十グラムの洗剤と、数十リットルの水。これもまた、深く考えずに繰り返される動作である。
日用品というカテゴリーの本質は、この「考えなさ」にある。一回あたりの金額も量も小さいから、選ぶときにも使うときにも、大きな判断を必要としない。判断を必要としないからこそ、毎日続く。
ところが、である。
単価が小さく、回数が膨大。 この組み合わせが何を意味するか、掛け算をしてみたことのある人は、意外に少ないのではないか。
この記事は、その掛け算をしてみる、というだけの記事だ。結論を先に言えば、出てきた数字はかなり非現実的な大きさになる。
そして、その非現実さをどう受け止めるかが、本題になる。
まず、歯みがきで計算してみる
前提を置く。ここから先の数字はすべて概算であり、前提を一つ変えれば結果は簡単に変わる。そのつもりで読んでいただきたい。
仮に、一回の歯みがきで使う歯みがき剤を一グラムとする。一日に二回磨くとすれば、一日二グラム。これを一年続けると、七百三十グラムになる。
ここで少し、手が止まる。
七百三十グラム。一般的な歯みがき剤のチューブが一本百数十グラムだとすれば、年に五本から六本を使い切っている計算だ。意識したことがあるだろうか。わたしはなかった。毎朝毎晩の、あのごく小さな動作が、一年でチューブ五本分の物質を消費している。
日本の人口を、仮に一億二千万人としよう。全員が同じように磨くわけではないから、これは上限に近い乱暴な仮定である。それでも掛けてみる。
七百三十グラム × 一億二千万人。答えは、およそ八万七千六百トンになる。
八万七千六百トン。重すぎて、かえって実感が湧かない数字だ。十トントラックで運ぶなら、八千七百六十台ぶん。毎日二十四台のトラックが、歯みがき剤だけを積んで走り続ける計算になる。
そしてこれは、中身だけの重さである。チューブの重さも、外箱も、輸送の燃料も、含まれていない。
洗濯のほうは、水が効いてくる
洗濯で効いてくるのは、洗剤よりむしろ水だ。
仮に、一回の洗濯に使う水を七十リットルとする。洗濯機の種類や容量、すすぎの回数によってこの数字は大きく変わるから、あくまで目安と考えてほしい。
一世帯が一日一回洗濯するとして、年間では二万五千五百五十リットル。二十五トンを超える。浴槽二百杯ぶん、といった規模感になる。
日本の世帯数を、仮に五千五百万としよう。実際には毎日洗濯しない世帯も、一日に二回回す世帯もあるから、これもまた粗い仮定である。
二万五千五百五十リットル × 五千五百万世帯。およそ十四億立方メートル。
もはや、比較の対象が思いつかない。中規模のダムがいくつあれば足りるのか、という話になってくる。
しかも水の話には続きがある。洗濯に使われた水は、汚れと洗剤を含んで下水に流れ、処理場で処理される。その処理にもエネルギーが要る。温水で洗えば、水を温めるためのエネルギーも加わる。実のところ、洗濯という行為の環境負荷の中では、水を温めるエネルギーの比重がかなり大きいと指摘されることが多い。
一回の洗濯は、ボタンを一つ押すだけの行為である。その裏側に、これだけの積み重なりがある。
世界に広げると、桁が変わる
ここまでは日本の話だった。世界に広げると、当然ながら桁が変わる。
世界人口をおよそ八十億人とする。歯みがきの習慣も、使う量も、地域によって大きく異なるから、単純に掛け算するのは乱暴きわまりない。それを承知のうえで、あえて掛けてみる。
年間七百三十グラム × 八十億人で、およそ五百八十万トン。
五百八十万トンの歯みがき剤が、毎年、世界中の洗面台で使われ、排水口に流れていく。これは製造され、包装され、船やトラックで運ばれ、棚に並べられ、そして数秒間口の中に留まったあと、流される。
こうして書き出してみると、日用品という産業がどれほど巨大な物流と製造の体系に支えられているかが見えてくる。一回あたり一グラムの営みが、これだけの規模の産業を必要としている。
わたしたちが「小さな買い物」だと思っているものは、社会全体で見れば、まったく小さくない。
「わたし一人がやっても意味がない」への、ひとつの反論
この掛け算には、もうひとつの用途がある。
日用品の選択について話すと、かなり高い確率で返ってくる言葉がある。「わたし一人が気をつけたところで、意味がないでしょう」。
この言葉は、論理としては正しい。一人が洗剤を変えても、すすぎを一回減らしても、地球規模の環境指標はまったく動かない。統計上は誤差にすらならない。その意味で、この指摘に反論するのは難しい。
だが、掛け算の構造を見たあとでは、少し違う考え方ができる。
先ほどの計算で、八万七千六百トンという数字を出した。この数字は、「一回一グラム」という、ほとんど無に等しい量から出発している。逆に言えば、この巨大な数字は、無に等しい小さな量が積み上がってできているということだ。
巨大な合計が小さな単位の集積であるなら、合計を動かす方法は、小さな単位に働きかける以外にない。一人の行動が合計を動かさないのは事実だが、合計は一人の行動以外のものでできてはいない。
もっとも、これを「だから一人ひとりの意識が大切だ」という道徳の話に着地させるつもりはない。そこが肝心なところだ。
一日二回の歯みがきを、人はなぜ続けられるのか。意識が高いからではない。習慣になっているからであり、道具が手の届く場所にあるからである。日用品の領域で本当に効くのは、決意ではなく設計のほうだ。
洗剤の一回あたりの適量が、キャップの形で自然に守られるようになっているか。すすぎ一回で済む処方になっているか。詰め替えが、面倒でなくできるか。こうした設計は、使う人の意識を要求せずに、合計を動かす。
意志の力に頼る仕組みは、必ずどこかで途切れる。途切れない設計のほうが、結局は強い。
この数字の、正直な限界
ここで、自分で書いた数字を自分で疑っておきたい。
第一に、前提が粗い。一回一グラム、一日二回、全員が毎日。どれも現実の平均とは言い切れない。歯みがき剤の使用量は人によって数倍の差があるだろうし、日本の全人口が一日二回磨いているわけでもない。前提を一つ動かせば、結果は倍にも半分にもなる。この記事の数字は、規模感をつかむための概算であって、実測値ではない。
第二に、そして、こちらのほうが重要なのだが、量が大きいことと、環境負荷が大きいことは、同じではない。
八万七千六百トンという数字は迫力があるが、その物質がどれほどの影響を持つかは、重量ではなく性質によって決まる。分解されやすいのか、水生生物に影響するのか、製造にどれだけのエネルギーを要したのか。重さだけを見て「だからこれは問題だ」と結論づけるのは、乱暴な推論である。
実際、日用品の環境負荷を精密に評価しようとすれば、原材料の調達から製造、輸送、使用、廃棄までの全段階を対象とした手法が必要になる。そして多くの製品で、負荷の大きな部分を占めるのは、製品そのものより使用時のエネルギーだったりする。洗濯の例で、水を温めるエネルギーに触れたのはそのためだ。
だから、この記事の掛け算を、そのまま何かの主張の根拠として使うことはできない。できるのは、「自分がふだん、どれくらいの規模の営みの一部にいるのか」を、体感として掴むことだけである。
数字は、思考を始めるための入り口としては有用だ。だが、結論として使うには、あまりに脆い。
考慮すべきこと
毎日使うものを定期的に届ける、という事業をしている。この掛け算は、わたしたちにとって、自分の立っている場所の説明そのものでもある。
定期的に届くということは、一回あたりの判断を減らすということだ。買い物のたびに棚の前で考える必要がなくなる。その「考えなくて済む」状態を作ることが、サービスの価値の大部分を占めている。
同時に、それは責任の所在が移るということでもある。使う人が毎回考えないのであれば、何をどう届けるかを考える側の判断が、そのまま掛け算に乗る。一回あたり一グラムの選択が、年単位・人数単位で積み上がっていく。その構造の入り口に立っている自覚は持っていたい。
とはいえ、わたしたちが完璧な選択をしているとは言わない。言えない。前回の記事にも書いたが、包装も原料も配送も、あらゆる選択がトレードオフの上にある。何かを良くすれば、別のどこかに負荷が移る。
だから、この記事で出した数字を根拠に「だからうちの商品を選んでください」とは書かない。
書きたかったのは、もっと単純なことだ。
今夜、歯を磨くとき。明日の朝、洗濯機のボタンを押すとき。その一回が、途方もなく大きな合計の一部であることを、一瞬だけ思い出してもらえたら、それだけで、この長い計算にも意味があったと思う。

