手のひらの中の、きわめてローカルな発明
シャンプーが切れかけている。棚から薄いフィルムの袋を取り出し、角をハサミで切って、ボトルの口に傾ける。とろりとした中身が流れ落ちるのを、少しだけ息を止めて見つめる。こぼさずに注ぎ終えたときの、あの小さな達成感。
日本で暮らしていれば、誰もが年に何度も繰り返している動作だろう。あまりに日常的で、わざわざ意識することもない。
ところが、この光景は世界的に見るとかなり特異である。詰め替えパウチが売場の主役を張り、詰め替え用のほうが本体より棚面積を占めているような国は、実のところ多くない。欧州の大型スーパーマーケットを歩いても、日本のような詰め替えコーナーには出会いにくい。代わりに、この十年ほどで目につくようになったのは、大きなタンクから洗剤を自分の容器に注ぐ「量り売り」のコーナーのほうだ。
同じ問題意識、つまり「プラスチックを減らしたい」という一点から出発しながら、日本と欧州は明確に別の道を選んだ。なぜそうなったのか。そして、どちらが正しかったのか。
結論から言えば、後者の問いに答えはない。だがその「答えのなさ」こそが、日用品という商売の本質に触れている。少し長くなるが、三十年ほどの回り道にお付き合いいただきたい。
日本が詰め替えを選んだ理由
日本で詰め替え用パウチが本格的に普及しはじめたのは、おおむね1990年代のことだ。背景にはいくつかの条件が重なっている。
ひとつは、住宅事情である。日本の住宅、とりわけ都市部の集合住宅は収納が小さい。ストックを置く場所が限られる以上、かさばるボトルを買い置きするより、薄く畳める袋のほうが合理的だった。ゴミ袋が有料化され、自治体ごとに分別ルールが細かく設定されていったことも、「捨てるときに小さいもの」への選好を強めた。
もうひとつは、技術と流通の相性の良さだ。薄いフィルムを重ねた多層構造のパウチは、軽くて壊れにくく、輸送時の体積効率が圧倒的に高い。同じトラック一台で運べる中身の量が増えれば、輸送にともなうエネルギーもその分だけ減る。プラスチックの使用量そのものも、硬質ボトルと比べれば大幅に少ない。減量という一点において、パウチはきわめて優秀な解答だった。
そして三つめ、これが見落とされがちだが決定的に重要な要素として、「消費者が作業してくれる」という前提がある。詰め替えとは、本来メーカーや小売が担ってもいい充填工程を、家庭の洗面所に外部委託する仕組みだ。日本の生活者は、その手間を驚くほど素直に引き受けた。こぼさず注ぐための工夫、切り口の形状、注ぎ口の角度といった細部の改良が積み重なったのも、「ユーザーが作業者である」ことを前提に製品設計が進んだからである。
結果として、日本の売場には世界的に見ても特異な生態系ができあがった。本体ボトルは何年も使い、中身だけを繰り返し買う。派手さはないが、生活に深く根を下ろした、静かな循環である。
欧州が向かった、もうひとつの道
同じ時期、欧州は別の方角を見ていた。
欧州の議論の中心にあったのは、使用量の削減というより、「使い終わったあとに何が起きるか」 だった。つまりリサイクルである。プラスチックをどれだけ減らしたかではなく、そのプラスチックが再び資源として戻ってくるかどうか。評価軸がそこに置かれると、パウチの立場は一気に悪くなる。
理由は構造にある。詰め替えパウチの多くは、単一の樹脂でできていない。内容物を守るために、樹脂の層とバリア層を貼り合わせた多層フィルムになっている。軽く、薄く、中身を長持ちさせるという性能は、この複合構造によって成立している。
そして複合素材は、リサイクルがきわめて難しい。接着された異なる材質を分離するには手間もコストもかかり、多くの場合、再生材として使うには品質が足りない。つまりパウチは、「捨てるときは小さいが、資源としては戻ってこない」 素材なのだ。
軽量化の優等生でありながら、循環の落第生。この二面性が、欧州でパウチが主役になりきれなかった最大の理由である。
代わりに支持を集めたのが、量り売り、いわゆるリフィルステーションだ。店舗に洗剤やシャンプーのタンクを置き、客は自分の容器を持参して必要な量だけ注いで買う。容器そのものを繰り返し使うのだから、包装廃棄物は原理的にほぼゼロになる。思想としては、これ以上ないほど明快である。
ゼロ・ウェイスト・ショップと呼ばれる専門店が各地に生まれ、大手スーパーも店舗の一角に量り売り什器を導入しはじめた。日本のメディアでも「先進事例」として繰り返し紹介されたので、記憶にある方も多いだろう。
ところが、量り売りは簡単には根づかなかった
理想的な仕組みが、必ずしも広く定着するとはかぎらない。
第一の壁は、衛生と品質の管理である。工場で密封された製品と違い、店頭のタンクは何度も開閉され、不特定多数の容器が接触する。中身が微生物で汚染されていないか、成分が分離していないか、前の客が使った容器に別の液体が残っていなかったか。食品や化粧品に近い製品ほど、この管理は厳格にならざるを得ず、そのコストは静かに積み上がる。
第二の壁は、店舗オペレーションだ。タンクの洗浄、補充、漏れの清掃、計量トラブルへの対応。どれも人の手が必要で、しかも売上に直結しにくい。棚に並べて売るだけの商品と比べたとき、同じ面積あたりの収益性で勝つのは容易ではない。
第三の壁が、おそらく最も根深い。消費者の習慣である。量り売りは、客に「空き容器を持って店に来る」という行動を要求する。買い物の前に容器を洗い、乾かし、忘れずに持ち出す。この一連の手間は、詰め替えパウチの「切って注ぐ」よりも明らかに重い。
熱心な支持層には受け入れられた。しかし、日用品が日用品であるゆえんは、深く考えずに買えることにある。意識の高さを常時要求する仕組みは、どうしても裾野が広がりにくい。
さらに、量り売り専門店の多くが小規模事業者であったことも影響した。ここ数年の物価上昇と光熱費の高騰は、そうした店舗の経営を直撃した。理念で始まった店ほど、採算の悪化には耐えにくい。華々しく紹介された事例のいくつかが、その後静かに姿を消している。
そして、詰め替えが「戻ってくる」
興味深いのはここからだ。量り売りの勢いがいったん踊り場を迎えたころ、欧州で再評価されはじめたのが、ほかでもない詰め替えパックだった。
ただし、かつてのパウチそのままではない。焦点は「単一素材化」に移っている。複数の樹脂を貼り合わせるのではなく、一種類の樹脂だけで必要な強度とバリア性能を実現する。そうすれば、使用後にリサイクル工程へ乗せられる。軽量化という長所を保ったまま、循環できないという最大の欠点を消しにいく発想だ。
技術的には難題である。中身を守る性能を単一素材で満たすのは簡単ではないし、コストも上がる。それでも各国の包装規制がリサイクル可能性を強く求める方向に進むなかで、この路線に資源が集中しはじめている。
つまり、三十年かけて何が起きたのか。日本は「減らす」から入り、循環という宿題を残した。欧州は「循環」から入り、普及という宿題を残した。そして両者はいま、単一素材の詰め替えというあたりで、ゆるやかに合流しようとしている。
ずいぶんな回り道に見えるかもしれない。だが、どちらかが最初から正解を知っていたわけではない、というのが正確なところだろう。
どちらも正解ではない、という着地
この話には、気持ちのいい結論がない。
パウチは優れている。同時に、リサイクルの観点では明確な弱点を抱えている。量り売りは思想として正しい。同時に、社会実装の難度が高い。片方を持ち上げて片方を貶める記事は書きやすいが、それは現実の形をしていない。
もうひとつ、忘れてはならない視点がある。包装の議論は、しばしば環境負荷全体のごく一部を切り取っている、という事実だ。製品によっては、原材料の調達や製造、そして使用時のエネルギー、たとえばお湯を使う時間のほうが、包装よりはるかに大きな比重を占める。包装は目に見えるから議論の的になりやすい。だが、目に見えるものが最も重いとはかぎらない。
では、生活者は何をすればいいのか。
おそらく、劇的な行動変容ではない。詰め替えを使うなら、本体ボトルをできるだけ長く使う。自治体の分別ルールを一度だけ確認しておく。量り売りの店が近所にあり、続けられそうなら使ってみる。無理のない範囲で選び、続ける。それだけのことだ。
拍子抜けするほど地味だが、日用品とは本来そういうものである。一回あたりの影響は小さく、回数だけが膨大にある。その膨大な回数を支えるのは、正しさへの決意ではなく、続けられる仕組みのほうだ。
わたしたちが考えていること
日々使うものを届ける事業をしている立場から、正直に書いておきたい。
わたしたちは、包装について完全な解を持っていない。より軽い包材を選べば循環性が落ちることがあり、循環しやすい素材を選べば重くなったりコストが上がったりする。配送の頻度をまとめれば輸送負荷は下がるが、生活者の使い勝手は少し犠牲になる。あらゆる選択がトレードオフの上にある。
だから、この先も「これが唯一の正解です」とは書かないつもりでいる。書けるのは、いま何を選び、なぜそう選んだのか、そして何を選べていないのか、という記録だけだ。
次に詰め替えパックの角をハサミで切るとき、ほんの一瞬でいい。手の中の薄い袋が、三十年分の試行錯誤の結果であり、いまもまだ途中経過であることを思い出してもらえたら、この長い文章にも意味があったと思う。

